宮崎駿は『ハウルの評価には怒っている、ものすごく!』と言われています。
『説明するための映画は作らないと決めた以上、俺は説明しない!』
結果として、半数程度の人は分からない、みたいな評価で極めて不愉快。
僕らはエンターテイナーとして、より多くのお客さんが満足してくれるものを作る責務がある。
別に喧嘩を売ろうと思って作ってる訳じゃない。
ハウルの動く城にはモチーフの作品に魅力を感じて、毎年【年をとっていく】視聴者に対して、【若返ることが素敵なことだ】って言えるのか。
年をとってもいいじゃん!ってそこだけは曲げたくなかったから話がややこしくなりました(;´・ω・)
しかし、ハウルの動く城という作品に対して、ほんとに骨の髄まで考え抜いた末の作品だと続けた。
宮崎駿は引退会見の最中に『もっとも自分の中にトゲが残っている作品は【ハウルの動く城】だった。』と語られています。
ハウルの動く城を作った宮崎駿の想いとは?
エンターテイナーとして何を伝えようとしたのか?
宮崎駿の想いがくみ取れるコメント・インタビュー・書籍などから調査してみます。
ハウルの動く城で伝えたい宮崎駿の想いとは?

宮崎駿は『説明しない』というこだわり。
視聴者の半数程度は『意味が分からない』『理解できない』という意見。
ここでは宮崎駿がハウルの動く城で何を伝えたかったのか?
個人の見解ではなく、実際に宮崎駿からの発言・書籍に基づいてひも解いていきます。
今回は宮崎駿がこだわった部分として
- ソフィーの姿が老婆になったり、少女になったりする部分
- ハウルには心臓がない部分
- 【城】へのこだわり
以上について調査します。
ソフィーの姿を変化させる宮崎駿の想い

ハウルの動く城は【60歳の少女】のための映画。
18歳の自分と60歳の自分とどこが違うんだろう?
90歳のおばあちゃんも18歳の時と少しも変わらない。
宮崎駿自身も還暦を迎えて、人間が年老いていくことに好奇心を持った。
もしも若さだけに人間の価値があるとしたら、歳をとったら意味がないのか?
18歳の少女が呪いをかけられて、90歳のおばあちゃんに。
その呪いを解けば、若くなって幸せになれるという映画にはしたくなかった。
呪いが解けて若い娘に戻ったら幸せだとすると、年寄りはみんな不幸だって話になる。
歳をとった女性にも魅力はあるよ。
【若さ】を取り戻すことがゴールなのではなく、人間なんて気持ち次第で90歳になったり、50歳になったり、少女になる事もある。
【若さ】以外の形で主人公の幸福が実現されるような作品を目指した。
ハウルは本当に何度でも言うけど、やっぱりソフィーに倍賞千恵子は厳しかったと思うんだよな。声がおばあちゃんだもん。
— 歌猫いろは💙💛 (@kanekoiroha) April 4, 2019
世間での反応で、『ソフィーの若い時は若い声優がいい』という反応もあったのだが、宮崎駿にはそこにも意図があったのだ。
ソフィーが最後に若さを取り戻して、『めでたしめでたし』という世間から望まれるべき結末を拒否して、ソフィーの年齢が作中で頻繁に変化するように物語を展開させた。
その結果、諦めたり、ネガティブな思考の時は【90歳の老婆の姿】に。
やるわよ!とポジティブな思考の時は【少女の姿】として描いたのだが、頻繁に外見が変化することに、観る者をしばしば混乱させることになってしまった。
観る側にも十分に伝わることになったか?
それが賛否両論ある1つの原因となってしまった。
これは私の意見だが、望まれた結末を描く方がはるかに簡単だったと思う。
しかし、伝わりづらいけれど、周りからは反感を買うかもしれないけれど、【伝えたいことを伝える】という宮崎駿の想いを感じ取ることができる。
ハウルから心臓をなくした宮崎駿の想い

少年時代のハウルが流れ星に自らの心臓を捧げることによって契約を交わす場面がある。
その契約を交わすことによって、ハウルは火の悪魔を従える強大な魔力を手に入れる代わりに心臓(=心)を失うことになる。
そしてそれ以降、ハウルは内面的な成長を止め、精神の成熟を拒否したまま、肉体だけが美しく育ってしまったのがハウルという人間。
大人になることを拒み続ける天才魔法使い
ハウルの【動く城】への宮崎駿の想いとは?

まず気になるのは城の見た目。
左右非対称で統一感もなく、砲台や部屋を後から付け足していったような外観だ。
あの城は言わばガラクタの寄せ集めであって、『男の子が小さい頃に思う色々な物を集めてひとつにしてみたい!』という夢の具現化なのだという。
【城】に対して宮崎駿の想いは並々ならぬものであり、城の登場する作品は以下。
- 長靴をはいた猫
- ルパン三世 カリオストロの城
- 天空の城ラピュタ
代表作として3つをあげるが、それらの城は背景の一部などではない。
城自体に多くの仕掛けやからくりに満ちた、作品の中で重要な役割を果たしてきたのである。
宮崎駿は【城そのもの】を中心的なキャラクターのひとつとして描いており、ハウルの動く城に関しては、目や口・ニワトリの様な足まで与えてしまっている。
戦争の描写を入れた宮崎駿の想いとは?

ハウルの動く城は、イギリスで出版されたHowl’s Moving Castleを原作に作られた。
ハウルの動く城とHowl’s Moving Castleの相違部分で最も議論されるのは戦争描写があるかないかではないだろうか。
原作になかった戦争という背景をわざわざ入れた理由は何なのか?
調査してみると宮崎駿の意外な想いや考え方が。
というやりとりがあるが、ハウルは敵味方関係なく戦争そのものを憎んでいることが分かる。
しかし、物語の終盤にはハウルには真っ黒い羽根に覆われた不気味な鳥に姿を変えて戦場へ向かう。
この時にハウルは不敵な笑みを浮かべていることから、戦場で戦ううちに理性を失いつつあると考えられる。
一度振るわれた力は自走し始め、力を振るうこと自体が快感となり、逆にハウルを取り込んでいく。
唐突だが、ハウルの動く城において悪役は誰だと感じるか?
ここで多くの人が『荒地の魔女』をあげるのではないだろうか。
物語前半ではそのように思う人も多いだろう。
荒地の魔女は物語半ばで【弱体化】させられ、可愛いおばあさんとしてハウル一味と共に城で暮らすことになる。
物語後半での悪役でいうと、王室付き魔法使いサリマンだ。
ハウルのかつての師で、現在は王に仕え権力を握っている魔法使い。
戦争を始める前にハウルに協力を求めるが、ハウルから出兵を拒否され、あらゆる手段を行使して攻撃をしかけてくるようになってしまう。
敵に位置する人物が物語の中で交代する演出も一般的にはやらない事なのだ。
【悪】とされるものを退けてまで登場した【国家権力】
暴力を私有化し、いわゆる独占しようとしていると評価できる。
戦う目的はなにか?誰と誰の争いなのか?
不明瞭な戦争がこの世界には多い事を、彼はこの作品で描き出したのである。
ハウルの動く城で宮崎駿の想いとは?まとめ

世間ではよく分からなかった・面白くないといった、批判の声があるのも確かです。
ハウルの動く城への宮崎駿の想いを少しでも伝える事ができただろうか。
もちろん考え方は人それぞれですし、『このように感じてください』と言われて視聴してそのように感じる必要もない。
しかし、監督の宮崎駿が何を言いたくてこの作品を作ったのか?
ハウルの動く城を【楽しんで観る】目的で観るのであれば、そういった観点で観るのもこれまでとは違う見え方で楽しめるだろう。
一般的なストーリー構成でも共感を得る為の作品ではない。
宮崎駿の想いを伝えるために、ハウルの動く城の作成には考えられないほどの努力が費やされていた。
これを読んでハウルの動く城を観ることで、作品を少しでも楽しんで頂けることと思います。